富士山 為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、 成らぬは人の、為さぬなりけり 我が社は今、新しく家電修理事業を立ち上げています。 今年中に軌道に乗るよう、頑張っていきましょう。   「為せば成る」の言葉を残した上杉鷹山(ようざん)のお話。 財政難に苦しむ小藩(九州高鍋藩)の次男に生まれた松三郎は、 母から質素な生活を送ることを教えられて育った。 成長したのち、東北米沢の上杉家からむこ養子の話がくる。 上杉家は伝統ある家柄、しかも十五万石の大きな大名で、 松三郎には願ってもないことである。 だが、この縁組にはわけがあった。 上杉家ひとり娘の幸姫(よしひめ)は生来病弱で 喋ることも歩くこともできなかったのである。 しかし、松三郎は幸姫を温かく受け入れ仲良く暮らす。 やがて藩主となり治憲(のちの鷹山)と名前を変えた松三郎が、 ある時幸姫に布で作った人形を渡すと、筆を口にくわえて 顔を描こうとした。何度も何度も失敗しながら描く場面に 家臣たちはホロリとくる。 この幸姫の姿に心をうたれた治憲は、当時二十万両の 借金のあった米沢藩の財政建て直しを決意する。 みずから一汁一菜(死ぬまでの三十八年間続ける)の倹約を行い、 くわを持って土地を耕し始めたのである。 武士の対面にこだわる家臣たちも、治憲を見習ってしだいに くわをもつのであった。そのころは江戸時代最悪と言われた 天明の大飢饉の最中であり、東北では多数の餓死者が出たが、 治憲は改革で蓄えた米を藩民に与え、米沢藩は一人の餓死者も 出さなかったという。 また、間引きの禁止令を出し、若年の子持ちと老人に対して 手当を支給するなどの福祉政策を行い、治憲は名君として 藩民から尊敬されるのであった。